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HOME  > 卒業生インタビュー  > No.29  大貫 美 [明豊ファシリティワークス株式会社 代表取締役社長]

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No.29  大貫 美 [明豊ファシリティワークス株式会社 代表取締役社長]

大貫 美 (おおぬき・よし)
明豊ファシリティワークス株式会社 代表取締役社長
(1989年度 武蔵野美術大学造形学部 空間演出デザイン学科卒業)

1964年生まれ。
1990年4月 株式会社スパチオ研究所入社。
1995年7月 明豊株式会社(現・明豊ファシリティワークス株式会社)入社。
2003年10月 取締役、2006年6月常務取締役 就任。
2014年4月 代表取締役専務 就任後、2017年4月代表取締役社長 就任 現在に至る。

【スライド写真について】
1.明豊ファシリティワークス 会社ロゴ前にて
2.取材時の様子
3.イタリア時代。お客さんの自宅パーティで商談
4. 【仕事の7つ道具(デジタル)】ペーパーレス・フリーアドレス:デジタルな働き方
ほぼ紙を使わず、常に互いに画面を見ながらの仕事。

※スライド写真3、4と文中の写真は大貫氏より提供

プロフィールを見る

デザイン感覚に優れた経営者やプロジェクトマネージャーは有利だと思う。

−ムサビ時代の学びで印象に残っていることは

私は空間演出デザイン学科で学んでいたのですが、「10号館を一つの街に見立てて何かをつくる」、「東京のこれから」といったテーマで、大掛かりなプロジェクトを考えていくような授業が楽しかったですね。よく覚えているのは、有名な彫刻家・向井良吉先生の授業。とくに印象に残っているのは、先生の発案で北海道の音更町と組んで行ったイベントで、ムサビ生のつくった彫刻を展示したりしました。この時は、現地の廃校になった小学校をお借りして宿泊し、自分たちで食事をつくったり、町長さんの自宅に招かれてご馳走をいただいたりしました。私は「デザインは質より量だ」と思っているんですね。課題でいくら考えても何も思い浮かばずに悶々としたそんな時でも、ひたすら考え続けていると、突然、何かを思いつくんですよ。とことんやってみて、量を重ねた結果が質に繋がっていくのだということを学びました。これは仕事でも同じで習慣になっていますね。

−ムサビの大学としての印象は

学生のタイプが本当に多種多彩で、日本じゃないみたいでした。まるでニューヨークやパリみたい。考え方はもちろん、ファッションもさまざまだし、信じられないようなことがよくあり、入学当時はとんでもないところへ来ちゃったなって思いました(笑)。そんな変わった人たちの集まりですから、みんなで意思統一をして何かを行うということがなく、徒党を組むことが大嫌い。大学中に個性が溢れているという感じでしたが、そこがムサビのおもしろいところだと思いますね。

−仕事はこれまで、どのような経歴をたどってこられたのですか

まず、大学4年のときにイタリアへ留学しました。そのため、就職活動ではイタリアに関連する仕事に就きたいと考え、スパチオ研究所という会社に就職しました。そして、入社半年後にはイタリアのミラノで働いていたので、20歳代のほとんどはイタリアにいました。その間、私は世界でも一流と評されるデザイナーの方と仕事をする機会にたくさん恵まれたのですが、強烈に感じたのは日本のデザイナーとは全く仕事の仕方が違うということでした。夜7時以降に仕事なんてしないですし、徹夜なんてまずしない。では何をやっているかというと、経営者っぽく戦略を考えたり、人と話をしていたりする。ですから、日本のようにきれいなパースをつくったり、プレゼンボードをつくったりといったことはほとんどしません。彼らは基本的に人と話をしていて、その中で生まれたアイデアなどを簡単にスケッチするだけ。そして、お客様のところへ行き、その簡単に描いたスケッチだけで説明していました。
スパチオ研究所ではイタリアと日本の懸け橋になるようなビジネスを展開していました。私は主にその往来の手助けを行っていました。デザイナーとして働いたことはなかったのですが、今、社長をしているのは、そのおかげかもしれません。


ローマに出張した時(1992年頃)


ミラノ中心街 Via Manzoni の事務所ビル。一番上のペントハウスが事務所(会長の自宅の一部)

−現在の会社へ転職した理由は何ですか

バブル経済がはじけて、日本経済が弱くなると共に会社の経営も厳しくなっていったからです。一方、転職先となった弊社(明豊ファシリティ ワークス)は当時30人程度の規模の会社でしたが、飛ぶ鳥を落とす勢いがありました。当時は主に日本に進出してくる外資系企業のオフィスをつくる手助けをしていました。東京都心のオフィスビルというのは、その多くがデベロッパー所有のもので、そこに入居してオフィスを構えようとすると、家賃以外にもインテリアのデザイン費や工事費などさまざまな経費がかかります。そして、これら一式を行う工事会社は、あらかじめビルで決められています。そうすると、必ずしもテナントの希望通りにならない事もあり、とくに外国人の方にはなかなか納得していただけません。そこに着目し、会社の経営を全てガラス張りにしたコンストラクションマネジメント事業を始めました。ところが、ビル側が指定している工事会社というのはほぼ大手なので、最初は大変な苦労がありました。

−大変な状況を打破することができた突破口は何だったのですか

オフィス事業では、テナントさんの理解が得られなければ、私たちの仕事は成り立ちませんが、テナントさんが疑問を感じても、それを口に出す人は少数派です。しかし、そんなテナントさんの中にも2~3割くらいの侍がいるんですよ(笑)。そういう侍の方々に信頼をいただいたおかげで、少しずつ状況を変えていくことができました。そして、現在はオフィス移転の手助けだけでなく、公共施設をはじめとして、工場や大学のキャンパス、アミューズメント施設などの建設マネジメントといった、大掛かりなプロジェクトも手掛けています。


【仕事の7つ道具(デジタル)】明豊マンアワーシステム:経営の可視化  会社の経営及び業務の情報は、すべて自社システムで様々な種類のデータとして可視化・定量化されています。


【ペーパーレス・フリーアドレス】デジタルな働き方 ほぼ紙を使わず、常に互いに画面を見ながら仕事をしています。

−脇役ではなく、主役として活躍するデザイナーとは

私は先ほど、社長になったのはデザインを業務としなかったからだとお話しましたが、デザイン感覚に優れた経営者やプロジェクトマネージャーは、有利だと思っています。その意味で、美大生のポテンシャルは高いと思います。しかし、目の前のデザインだけしか見ようとしなければ、その才能は活かしきれないと思います。デザインのプロセスを3つに分けて説明すると、第一段階では、今の社会環境と発注者(企業など)の課題を読み、自分に提案できることとその理由を短い言葉にします。そして、第二段階では自分の考えを発注者へ説明します。このときは、第一段階の言葉と伝えたい事だけに集中した1枚のイメージで表現します。そして、最後の第三段階がデザインになります。このプロセスの中で、多くのデザイナーは第三段階だけ、早くても第二段階からというのが現状でしょう。第一段階は、お客さんが考える事、またはより上流のコンサルタントが考えるものとデザイナーが最初から受け身になるのではなく、それこそデザイナーの仕事だと考える人々が増えれば、主役になろうとするデザイナーも増えていくと思います。そして、私たちの仕事でも、そういう方は活躍できると思います。

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