デザイナーと大学教授、二足のわらじで叶えたいもの。
─ ムサビに入ろうと思ったきっかけは?
大学までエスカレーター式の私立の女子高に通っていたのですが、高校1年生のときに美術の先生から「美大に行きたいんだったら、早いうちから準備しないと駄目だよ」と声をかけられたんです。たぶん、すごく楽しそうに絵を描いていたんでしょうね。
それでデザインや美術について調べたら、広告デザインというものがあると知って。コンマ何秒で人の心を捉えて、ある役目を終えたら消えるという、ちょっと刹那的な感じが若い自分の感性に響き、美大に行くことを決めました。
─ 広告デザインに興味があったのに、工芸工業デザイン学科に入学された理由は?
美術予備校の先生が東京藝術大学の彫刻科出身で、「3次元を制するものは2次元も制する」と仰ったんです。かなり乱暴な話です。でも、そのころは疑わない性格だったので、「そうか、だったら工芸工業だ!」と思い込んでしまって(笑)。おかげでいまの私があるんですけどね。
─ 大学時代はどのように過ごされましたか?
2年生の後期からインテリアのコースに進み、ようやく気の合う同期が見つかって楽しかったですね。でも、もっと楽しいことは、大学の外にありました。当時流行っていた六本木のディスコやカフェバーです(笑)。出版社で日本史の赤本の校正をするアルバイトで稼いだお金をすべて遊びにつぎ込んでいました。
(左)ヴェネツィアにて、大学時代の友人と (右)イタリア・ローマの「真実の口」の前で
六本木に限らず、『商店建築』という雑誌に掲載された都内の新しいお店は、ほとんど行ったと思います。一度、女の子とふたりで最新のインテリアを見るために訪れたバーが、おかまバーで。これはナメられちゃいけない!と、「何か飲んでください」「フルーツもどうぞ」なんてやっていたら、会計が十数万円になっちゃった(笑)。そういう失敗を含め、若いなりに「街」というものを学ぼうとしていたんでしょうね。
─ 大人の奢りではなく、自腹で学んでいたのが素敵です。卒業後はGKインダストリアルデザイン研究所に入社されました。
工業デザイン概論の最初の授業で、「GKはインダストリアルデザインを日本へ最初に持ち込んだ榮久庵(えくあん)憲司がつくった事務所」と教わったのがずっと印象に残っていて志望しました。入所後は環境設計部に配属され、全国の自治体の公共プロダクト、ガードレール、路面の舗装パターンのデザイン、建物の色彩計画、サイン計画などに携わりました。
GKインダストリアルデザインに務めていたころ
─ サイン専門のデザインの面白みはどんな点でしたか?
地域ごとに“らしさ”を掘り起こしていく作業が楽しかったです。建築家は自分の設計した建物を「(私の)作品」と言いますが、予算をいただいてつくるものをそう表現するのはちょっと違うなと感じていて。その点、GKでの仕事はアノニマス(作者不明・匿名)だったので、それが自分にとってはカッコよかったんです。
忘れ難いことといえば、配属先のトップから「君たちが描く一本の線に社会的意義があるか、自らに問いかけてデザインしなさい」とよく言われたこと。社会にとって意味のあるデザインを常に考えるようになり、意識が一段階上がって、少し違う角度で社会を見られるようになりました。修行僧のように働きまくり、たくさんのことを学ばせてもらった11年間でした。
GK時代に手がけた「東海道品川宿まちづくり計画書」より
─ 退社後はどうされたのですか?
さまざまな挑戦を経て、F&Fという会社に転職しました。東京都庁舎および周辺地区のサイン計画を担当した際に私のことを買ってくださった社長さんから「子会社のデザイン事務所を任せたい」と言われたんです。33歳でした。
ここでは建築家とともに商業施設や公共施設のサイン計画を行い、「ユーザーの体験をデザインする」ことの重要性をしっかりと自覚できました。Appleの商品を初めて買うときって、まずあの美しいパッケージにワクワクするじゃないですか。同じ様に、初めてその施設を訪れた人にもそんなワクワクを感じてもらいたい。だから最初のインターフェースのデザインは非常に重要なんですよね。
(左)F&F時代に手がけた「NTTドコモさいたまビル」のサインデザイン (右)竣工写真でスタッフとふざけて記念写真
─ その後、F.PLUSを起業されています。
2003年、名古屋で開催された世界グラフィックデザインのプレイベントを見に行ったら、会場のデザインが何もかも素晴らしかった。担当された原研哉さんに、面識がないにもかかわらず、「めちゃめちゃ感動しました!」と伝えたところ、「あなたは誰ですか」「私はGKでサインデザインをやっていた者です」「よかったらポートフォリオを見せてください」という展開になって。後日、訪ねると、世界グラフィックデザイン会議の本番の、サインデザイン担当に抜擢してくださったんです。
その後、佐藤卓さんなど錚々たるデザイナーと1年間ご一緒させていただき、卓さんの「もうピンで勝負したら?」というひと声に背中を押されて独立しました。39の頃です。
少し話を戻すと、環境デザインって、建築とインテリアの間を繋ぐとか、屋外と屋内の間を繋ぐとか、関わる範囲が広すぎるので、専門家を名乗りにくかったんです。そこで、私は「サインの専門家です」と言えるようになろうと、F&Fではサインデザインを集中してやりました。それが功を奏し、独立してからはサインをベースにした広告や展覧会の会場構成など、私だからできる仕事を依頼していただけています。
独立後に手がけた韓国「パークハイアットソウル」のサインデザイン
─ 部下をもち会社経営を行うかたわら、2011年の4月には東京大学大学院に入学。いまでこそリカレント教育が流行っていますが、これはどのような思いで?
きっかけをくださったのは秋田寛さん(故人)です。グラフィックデザイナーで、東京造形大学の教授もされていて、私にサインの授業を依頼してくださった。そこで授業計画を15回分つくって臨んでみると、初めはザワザワしていた90人ほどの学生が、回を追うごとにどんどん真剣になって。学生がグーンと成長していく様をこの目で見たとき、「教育ってなんてクリエイティブなんだろう」と、ちょっと震えるぐらい感動してしまったんです。
でも、せっかく教育に携わるなら、非常勤講師ではなく、責任をもって卒業まで見届けられる専任になりたかった。しかも、美大ではなく、普通大学の皆さんにデザインを教えたら、未来のクライアントを育てられるのではないか、とひらめいたわけです。
そこで普通大学にいくつか願書を送ったところ、ことごとく落ちちゃって(笑)。その中で最終面接まで進んだある大学の学部長の方からメールが来て、「あなたのことを最後まで推したのですが、学部卒で論文の実績のないことがネックでした。もし本当に大学の教員になりたいのであれば、大学院への進学をお勧めします」との助言をいただいたんですね。
ただ、会社経営と大学院の両立は厳しく、会社をいったん整理しなければいけない。だったら、一番いい大学に行かないと周りが納得しないだろうし、申し訳が立たないと考え、東大に決めました。3人いた社員には事情を話して他の会社に転職してもらったのですが、彼らの応援が本当に心強かったです。
東京大学大学院の修了式にて
─ 人徳ですね。院は2014年に修了。現在は京都芸術大学にて念願だった大学教授をされています。
実は東大の在学中に採用されたんです。当時は京都造形芸術大学という名でしたが、ここも面接まで行って落ちたあと、先生から非常に好意的なメールをいただいたので、「東大に入りました」と報告をしていた。すると、M1(修士課程1年)の冬に電話があり、「新しい学科をつくるのですが、一緒にやってくれませんか」と。
新しい学科は、100%オンラインで、芸術を教養として広く社会人の人に教えるという、大学初のコース。私が「未来のクライアントを育てたい」と言っていたことと見事合致していました。
─ そうして新しい学科設立に奔走されたわけですね。現在はデザイナーと学部長兼大学教授という二足のわらじですが、今後の展望は?
デザイナーとしては、「ユーザーの体験をデザインする」というのはいまも変わりありません。教えるほうは、いま学部と大学院の両方を指導しており、デザインの裾野をより広げられると同時に、実践者の育成と輩出もできているのかなと。デザインを理解した人づくりで社会を変えることを、時間の許すかぎり、続けていきたいです。
─ 最後にムサビで学ぶ学生にメッセージをお願いします。
いま、社会から要請されている「デザイン」とは、大量生産時代のデザインとはまったく異なり、ある目的をもって課題を解決するための思考のプロセスを指すのではないかと思います。与えられたものをそのまま受け取るのではなく、なぜそうなっているのか、本当にそうなのか、どうしたらもっと良くなるかを考えてください。疑うことは罪ではありません。疑い、「なぜか?」を考え、仮説をもって検証する。それを何度も繰り返す。そうすると、不思議なことに世の中のいろんな不具合も変わってきます。何に対しても自分ならではの「問い」を立てられる人になること。それが現代を生き抜く鍵だと思います。
取材:堀 香織(92学油/フリーランスライター兼編集者)
ライタープロフィール
京都市在住のライター/編集者。雑誌『SWITCH』の編集者を経て、フリーに。『Forbes JAPAN』、Yahoo!ニュース特集ほか、各媒体で人物インタビューを中心に執筆中。単行本のブックライティングに、是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』、小山薫堂『妄想浪費』など。石川県金沢市で生まれ、東京で育ち、7年の鎌倉住まいを経て、2022年2月より京都に移住。現在の家は人生始まって26軒目、目指すは43回引っ越した谷崎潤一郎。
https://note.mu/holykaoru/n/ne43d62555801
撮影:吉田亮人