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No.67 谷 充代 [執筆家]

谷 充代(たに・みちよ)
執筆家
(1974年[1973年度]短期大学部生活デザイン科卒業)

1953年、東京生まれ。1974年に短期大学部生活デザイン科を卒業。スキー専門雑誌の編集記者を経て、フリー記者に転向。ヨットの専門誌『Kazi』 でインタビュー記事を書き、テレビ(「レディス4」高崎一郎氏が司会をするテレビ東京のトーク番組など)の構成作家となる。1980年半ばから2010年代にかけて、俳優・高倉健を巡ってさまざまな取材を重ねた。氏がパーソナリティを務めたラジオ番組『高倉健 旅の途中で…』(ニッポン放送、1995~2000)にも参画し、出版物の制作も担当。その傍ら、随筆家・白洲正子や作家・三浦綾子など「生きる」をテーマにルポルタージュを手がけた。
出版・放送業界の健さんファンが集う『健さん 片想いの会』(1988~2022)を主宰し、2022年以降はコアなファンとの交流の場をとりまとめている。
著書は『「高倉健」という生き方』(新潮社・2015)、『高倉健の身終い』(KADOKAWA・2019)、『幸せになるんだぞ 高倉健 あの時、あの言葉』(KADOKAWA・2020)。

【スライド写真について】
1. 人生の礎となったムサビのキャンパスは機会ある度に訪ねる
2. 版を重ねる著書3冊
3. フリーランスのころ。1988年、映画『敦煌』のロケ地取材。主演・西田敏行さんと
4. 1999年公開、映画『鉄道員』を北海道、静岡にて取材
5. 白洲正子さんとの京都、奈良への旅は貴い思い出

プロフィールを見る

「高倉健の本当の言葉」を30年間探し続けて

─ ムサビを選んだきっかけは?

小学2年生の時に見た映画『*はだかっこ』に感涙し、いつかはこういう作品を作りたいと思ったのが、芽生えだったかもしれません。幼少期は心の赴くままにのびのびしていたのですが、高学年のときに圧の強い先生に馴染めず登校拒否になりました。成績はどんどん下がり、成績順で決められた座席はとうとうクラスで成績最下位の子の隣になってしまいました。その子は経済的に倹しい家庭の子供でした。でも実は家族のために新聞配達をして働いているので勉強時間が取れないという事情を知り、人間は表面だけではわからないと気づかされるのです。それから、人間が作り上げられていく過程に関心を持つようになりました。
*『はだかっこ』1961年に公開。母と二人だけの倹しい生活を送りながらも元気に生きていく少年の姿を描いた名作映画。

中学、高校も美術部に所属し、大学進学も美術系を志望。「一つのデザインにこだわらないで、企画力や創造力や人材力をつける」というコピーに惹かれ、ムサビに行きたいと思ったのです。

─ ムサビの思い出は?

鎌倉の自宅からの通学時間は片道2時間。でも1限の体育には無遅刻無欠席でした(笑)。サークル活動や学園祭に活気があり、クラスを越えて交流できたのがよかったですね。


楽しかったムサビ学生時代、軟式テニス部の仲間と

印象深かった授業はデザインの最初のクラス。先生がデザインに使ったケント紙の余り切れを机の上に並べ、「この紙が君たちを救ってくれるんだよ」と言って、切れ端を持って帰らせたのです。ここはいい学校だなとますます素晴らしく思えました。

─ 卒業後、メディア業界に入った経緯を教えてください。

卒業後は自宅で近所の子供達を集め『学童保育のようなもの』を開き、「1日1回笑おう」をポリシーに、勉強、お絵描き、山歩きなどをして一緒に楽しく遊ぶお姉さん役を2年ほどやっていました。その後、父が体調を崩したことから、事務仕事につきますが、ある時、私の経歴を知った同僚から「なんでここにいるの?」と聞かれ、はっとさせられます。そこで新聞でみつけた月刊誌『スキージャーナル』の求人募集を目にして、編集者に転職。吉永小百合さんをはじめいろいろな人を取材し、「キラキラ輝いている人が世の中にはいっぱいいるのだ」と感動し、もっと広い世界を見たくなり、フリーの記者に転向することにしました。


『スキージャーナル』編集者のころ

退職後、月の収入はわずか2万円。その頃始めた東京一人暮らしのアパート代にもならない困った状況に直面しました。でも幸いにも新宿ゴールデン街に知り合いの店があり、そこで編集者や作家さんたちと出会い、テレビの仕事も紹介され、人気トーク番組の構成作家となりました。

─ 高倉健さんと出会い、30年も追い続けることになったのですね。

映画『南極物語』が公開された年(1983年)、友人のはからいで『夜叉』の撮影に立ち合わせてもらえることになりました。上下黄色の服を着て現場を2週間もウロウロしていた姿が目についたのか、終わり頃に健さんからお茶に誘ってもらえたのです! 緊張気味の私を気遣ってか、「よろしければお酒もどうぞ」のお言葉に、ありがたくお酒をいただき、健さんのお人柄に気持ちも少しほぐれると、健さんに向かって、「あなたは宇宙人みたいな人ですね」なんて言っておりました。飲酒しない健さんの前ではスタッフは禁酒禁煙ということを知ったのは後のこと。スタイル抜群の美男美女の中、ショートパンツ姿で大根足を平気でさらしていた私を、健さんは「周囲にいないタイプ」とびっくりしていたのではないでしょうか。並んで写真は撮るし、お酒は飲むしで、私こそ宇宙人じゃないかと思われていたかもしれませんね(笑)。私が31歳、健さんが53歳のときでした。


『夜叉』の撮影現場で、健さんと初めてのツーショット写真

会ってみると、寡黙一辺倒のイメージと違っていました。もっと知りたくなって大宅壮一文庫で資料を読み漁ったのですが、重複した内容も多く落胆。それで、健さんのそばで本当の言葉を聞き、高倉健を作りあげた言葉、周囲の事情も含めた言葉の成り立ちを探していこうと決心したのです。多数の映画の撮影現場やテレビドラマ、コマーシャルの製作に立ちあい、健さんが感動した場所を国内外訪ねてみました。


健さんからの声がけで実現した独占取材も多い

─ 高倉健さんの印象深いエピソードについて教えてください。

世界中に同行しましたが、一緒に食べる食事はほとんど中華料理。「CMでも映画でも自分の身体を必要としてくれているのだから、コンディションを崩すわけにはいかない」と、火の通ったものしか食べないしお酒も飲まないという、ストイックでプロフェッショナルな人でした。そうした自分への厳しさは、自分以上に、仕事の相手をもっと大切にしているということの現れのように思えました。


単行本『旅の途中で』の編集合宿中、下田のみなさんと

健さんは『網走番外地』の頃からマジックをしては現場を和ませていたそうです。瞳孔をくるっと見開いた健さんにみつめられると、とても心地がよくなって「高倉健にもう一回会いたい」という感情が湧いてくるのです。私も「健さんマジック」にかかったのかもしれません。

30年近く取材したある日、「谷とは腐れ縁だよな」と言われたときは飛び上がるほど嬉しかった。周辺事情を地道に取材していたことをわかっていてくれたのだなと思って。

─ 三浦綾子さんや白洲正子さんも取材されたそうですね。

10代の頃からファンだった三浦さんに会ったのは亡くなる1年前で、それが最後のインタビューになってしまいました。その時に聞いた、「書きたいことはあるのに、書く身体がない」という最期の独白が心に残っています。「生きて書く身体があるのだから甘えてはいけない」と思わせてくれた三浦さんに心から感謝しています。


旭川のご自宅で、三浦光世さん、三浦綾子さんと

白洲正子さんについては『アサヒグラフ』の特集記事を担当しました。20ページをまとめるのに1年間通い続け、京都・奈良への旅に同行させてもらえました。「文章は金のために書くんじゃない。売文家になるんじゃない」と教えられ、交流した体験はすべて、自分の血となり肉となっています。骨董を見抜くすばらしい心眼を持ち、生き方は清々しくカッコよかった。亡くなった時も、窓を閉め切り、「お花・香典無用」とシャットアウト。頭上には、冬の時季とあって、大好きだった花の枝だけが供えてありました。こんな素敵な死に様、これこそが「自らの生涯をデザインすることではないか」と感銘を受けました。


執筆した『アサヒグラフ 白洲正子特集』は売れ行きも好調だった

─ 3人(高倉さん、三浦さん、白洲さん)への取材を通してどんな影響をうけましたか。

「自分の人生の持ち時間に何をすべきかを考えて生きていくことーー無駄なことはしない。人に嘘をつかない。意地悪をしない。嫌な仕事をやるべきじゃない。お金を得られなくとも、喜びがないことはやらない」
これは3人に共通していた考え方でした。

─ 今取り組んでいらっしゃることはなんですか。

最初のファンの集い『健さん 片想いの会』は34年目に解散しましたが、昨年からコアのファンの集まりである第二の会ができました。メンバーは健さんの妹さんをはじめ13名。まだ知られていない健さんの素顔を綴った小冊子『極私的なエッセイ』をメンバーに送っています。妹さんやファンの方々と心の交流をすることは、健さんへの恩返しの気持ちなのです。

これだけ情報過多な時代だからこそ、生(き)のピュアなものに出会いたいし、ピュアなものを伝えていくような仕事をしていきたい。その結果、心にゆとりができ、「1日1回笑って過ごしていこう」と思う人が一人でも増えてもらいたいのです。


旅をすると出逢いが待っていて、それが想像をかきたててくれる

─ ムサビの学生へのメッセージ

絶対に嫌なことをするな。私は自分の年齢を意識したり、年相応なことをしなければいけないとか考えたことがありません。なぜそういう生き方ができているかというと、嫌なことをしてこなかったからでしょう。その代わりお金とは縁がないかもしれないし、時間はかかるかもしれないけれど、気持ち良い時を過ごせます。

編集後記:
「蟻やみみずに話しかけちゃうのよ」、茶めっけたっぷりに微笑む谷さんは、子供のような純粋さを持ち続けている。三大スターとの密な交流を人生の糧として「まだまだいきますよ〜!」とハツラツと語るお人柄に、ポジティブなエネルギーをいただいた。彼女自身も『健さんマジック』を立派に受け継いでいるに違いない。私もそのマジックにかかってしまったかな、と感じた。

取材:大橋デイビッドソン邦子(05通デコミ/グラフィックデザイナー)
ライタープロフィール
名古屋市生まれ。1986年に早稲田大学政治経済学部卒業後、情報通信会社で企業広告、フィランソロピーを担当。その後、米国、パラグアイ、東京に移り住む。2006年に武蔵美通信コミュニケーショデザインコースを卒業後、再び渡米し、2008年よりスミソニアン自然歴史博物館でグラッフィックデザインを担当。2015年より東京在住。
http://www.kunikodesign.com/

撮影:野崎 航正(09学映/写真コース)

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