山本 豊津(やまもと・ほず)
「東京画廊」代表取締役社長
全国美術商連合会常務理事、日本現代美術商協会顧問、日本洋画商協同組合理事、金沢美術工芸大学客員教授
(1971年[1970年度]武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業)
1948年、日本初の現代美術の画廊「東京画廊*」の創業者山本孝の長男として生まれ、家にアーティストや評論家が出入りする環境で育つ。武蔵野美術大学を卒業後、元大蔵大臣村山達雄氏の秘書を7年間務めたあと、1981年より東京画廊に参画し2000年に代表に就任。アート・バーゼル(香港、スイス)など世界中多数のアートフェアへ参加し、展覧会や都市計画のコンサルティングも務めるかたわら、日本の古典的表現の発掘・再発見や、銀座の街づくり等、多くのプロジェクトに積極的に取り組んでいる。その他、若手アーティストの育成や大学・セミナーなどを通じたアート教育の実践にも力を入れる。趣味は読書。
著書は『アートは資本主義の行方を予言する』(PHP新書、2015)、『コレクションと資本主義』(水野和夫共著、角川新書、2017)、『教養としてのお金とアート』(田中靖浩共著、KADOKAWA、2020)
*「東京画廊」は1950年、銀座に設立。欧米の新しい動向を導入するほか、日本の戦後美術である具象絵画や具体作家、もの派作家、さらに韓国・中国の現代美術にいち早く着目し世界に紹介。2002年には北京・大山子地区に新たな画廊BTAP(ビータップ、代表は弟の田畑幸人)をオープン。2006年に屋号を「東京画廊+BTAP」と改め、東京と北京を拠点に、幅広い世代・地域のアーティストを国内外に発信中。
Webサイト:https://www.tokyo-gallery.com
【スライド写真について】
1.本人ポートレート
2.東京画廊 フォンタナ個展(1962)
3.山本豊津氏と田畑幸人氏
4.東京画廊 近藤高弘個展「消滅から再生へ」(2024)
5.著書「アート資本主義の行方を予言する」
日本、東アジアの現代美術を世界へ発信し続ける
─ ムサビの学生時代の思い出についてお聞かせください。
最も影響を受けたのは学生運動です。もともとは政治的なことに無関心なノンポリ学生でしたが、経済学のクラスで学んだロシアの哲学やマルクス経済学に興味を持ち、友人たちとマルクスの『資本論』を読むことになりました。それがあまりにもおもしろくて、その周辺の書物も読破するほど。これでようやく自分も運動家の連中と話ができるかなと思いきや、ほとんど誰も『資本論』を読んでいないことがわかりびっくり。一方、のちに総理となる大平正芳先生ら政治家の人たちはそれらを全部読み、社会主義や共産主義にも深い知識を持っていました。思想的なことを理解している人とそうでない人との長期戦になったら、前者が勝利するのだとこのとき悟ったのです。

建築の道に進まなかったのは、当時の現代美術の中心的なメンバーが父と話したり実験的な試みをしたりするのをいつも見聞きしていた影響かもしれません。建物の設計より、もっと大きな都市計画とかコンセプチュアルな建築にしか興味をもたなくなってしまって。さらに、東大からきた教授が「頭脳を使うのは東大生、ムサビ生は手を使え」と言ったのに無性に腹が立ち、卒業制作も「建物を一つ設計せよ」という課題を無視してよりコンセプチュアルなものを作りました。よく卒業できたなと思っています(笑)。卒業できたのはゼミの指導教員であった故寺田先生のおかげです。
─ 大学卒業後は建築を志さず、非常にユニークな道へ進まれたのですね。
卒業後は就職せず、都市計画事務所で沖縄海洋博の準備を手伝っていました。都市計画に携わるならその上の政治に関わらなければと思い、政治の世界を覗いてみることにしたのです。父の仕事の関係からのちに大蔵大臣となる村山達雄先生を紹介してもらい、7年間秘書として働きました。それまでとは対極的な政治の世界はとても新鮮で様々なことを学びました。
ところが、あるとき、母の友人から「豊津君はお辞儀の仕方に品がない」と言われ、大ショック!秘書を辞める決心をしました。そして家で手持ち無沙汰にしていると父から誘われ、東京画廊に入ることに。33歳の頃で、そのときはまだ後を継ごうという気は毛頭なかったのですが。

東京画廊外観(1958、斎藤義重個展開催)
─ 東京画廊は日本で最初の現代美術の画廊ということですが、その背景について教えてください。
創立者の父は14歳のときに古美術商・平山堂商店に丁稚奉公に入り、仏教美術を扱っていました。戦後の財閥解体により洋画(油絵具で描いた日本人の絵画)が市場に出回るようになり、商売になると考えた父は、古美術店の店頭で洋画を売り始めました。1948年に独立して銀座に数寄屋橋画廊を開き、1950年に東京画廊を設立。当初は、西洋とは違う日本の風土で生まれた日本的な西洋絵画を描く画家たちに着目しました。パリ訪問でヨーロッパの抽象表現主義の絵画と出会い、1958年に斎藤義重(※1)の個展を開催したことをきっかけに、国内外の現代美術を扱うようになります。1969年に展示された関根伸夫(※2)の「位相―油土」という作品は、画廊に1トンの油土を積んだだけのもの。東京画廊はついに売り物にならない展覧会をやってしまったんですよね。
※1:さいとう よししげ(1904-2001)絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。
※2:せきね のぶお(1942-2019)1960年代末から70年代に「もの派」の代表的作家として活動。とりわけ1968年に制作した「位相 大地」はもの派の先駆的役割を果たしたばかりでなく、戦後日本美術の記念碑的作品と評されている。

関根伸夫個展「位相―油土」(1969)
その後1970年代は東アジアの現代美術に目を向けました。アジア諸国の古美術を現代的な発想で取り上げる展覧会を行ったので、「東京画廊は古美術商に戻った」なんて雑誌に書かれましたよ。まずは、韓国、その後1990年後半には弟の田畑幸人が中国の現代アートに力を入れ、2002年に北京にBTAP(Beijing Tokyo Art Project)をオープンしました。東京画廊+BTAPは、日本はもちろん、韓国や中国といった東アジアの現代美術を世界へ発信していくことを目標としています。

北京東京藝術工程第一回展覧会:北京「浮世絵」(2002)
─ 東京画廊はなぜアジアの現代美術に特化することにしたのでしょうか?
第二次大戦後強大な力を持った米国と、共産主義国として台頭するロシアと中国に対抗するため、ヨーロッパは一つの商圏としてEUを作りました。欧州がまとまりやすかったのは各国の近代化がほぼ同時期に起こっていたことが考えられます。一方、アジアの国々の近代化はばらばらでした。1970年代に日本の美術界でアジアや日本文化への回帰が起こり、もともと古美術商出身で東洋に造形の深かった父は、日本、中国、韓国、東アジアを中心とするマーケットを作ろうと考えました。そもそも日本は中国からの文明に多大な影響を受けていますし、日本一国だけで世界の美術商圏に対抗できないので、東アジアというまとまりを形成したらどうかと。しかし70年代に父が訪ねたフィリピンには現代美術はなかったし、90年代に私が訪ねたインドにもインド独自の現代美術はなかった。今ようやく足並みが揃ってきて脱ヨーロッパ的なアジアの現代美術が出てきたところです。父の取り組みは時期尚早だったのかもしれません。

5つのヒンセク<白>:韓国5人の作家展(1975)
─ 国際的なアートフェアに積極的に出展されていますね。
ヨーロッパ、アジア、アメリカの三大アートマーケットで様々な現代アートフェアが開催されており、最も有名なのはスイスのアート・バーゼル、それに続く香港、マイアミです。アート売買と情報交換の重要な場で、全世界から選りすぐられた約300軒の画廊が出展し、世界中のコレクターや投資家が集まります。東京画廊は2014年に香港、翌年スイスに選ばれ、そのあとマイアミにも選ばれました。今は、スイス、香港、フリーズソウル、上海、国内ではアートフェア東京、九段、京都のACK、福岡のアートフェアに参加しています。私がアドバイザーを務めていたアートフェア東京は古美術、近代、現代の三種類の画廊が集う世界でも珍しいもので、日本最大級かつアジア最古のフェアです。

アート・バーゼル出展ブース(2025)
─ 手がけた展覧会の中でもっとも印象深かったものについて教えてください。
1994年、現代美術を扱う「ポートサイド・ギャラリー」が横浜にオープンし、その運営を頼まれました。実は画廊の二代目は、一代目がいるときはその画廊での展覧会は任せてもらえません。その頃父亡き後、番頭さんが社長となっていたので、東京画廊では自分はお手伝いという立場。そこで同じ様にやりたくてうずうずしていた他の画廊の二代目たちにも声をかけ、5人で企画をすることにしました。この体験はのちのキュレーションに大いに役立ちました。しかも三井不動産と相模鉄道が後ろ盾となっていたので、展示作品を売らなくてもよかったのです。アジアシリーズや知的障害者や視覚障害者のアート、ジェームズ・タレル(※3)展(南天子画廊の企画)、ヤン・ファーブル(※4)展(佐谷画廊の企画)など、売らないで済む展覧会を自由にやらせてもらい、両会社には本当に感謝しています。
※3:James Turrell(1943-)アメリカ合衆国の現代美術家。主として光と空間を題材としたンスタレーションを多数制作。
※4:Jan Fabre(1958-)ベルギー出身。アンリ・ファーブルの曾孫。青インクのボールペンで表面を青く描き埋め尽くしたドローイングや、コガネムシを用いて表面を埋め尽くした彫刻、空間演出で有名。

横浜ポートサイド・ギャラリー 台湾の現代美術4人展(1994)
─ 「アートの力」とはどのようなものだと考えますか?
イマジネーションのコントロールではないか。イマジネーションは人の心を動かすので、誰かを傷つけることもあり得ます。だからこそ人間が持って生まれたイマジネーションというものをどのようにコントロールしていくかがアートの役割であり、アートの力と関係すると思っています。
─ 東京画廊がこれからやりたいことは何でしょうか?
本来なら人間は身体の五感を通して感覚を醸成しイメージへと繋げていきます。例えば子どもは五感が発達していくうちにイメージが形作られていき、そこからさらに五感が刺激されていきます。都会で育った人は自然豊かな環境で育った人より五感が乏しいが、それを補填するために、アートがある。虫の声の代わりに音楽を聴き、自然の光景の代わりに美術に触れて五感を研ぎ澄ますというように。

しかし、コンピュータが猛スピードで発達するにつれて、五感から入ってくる感性が段々限られてきていると危惧しています。AIが浸透すると、身体の五感からではなく、「言語」から入ってくる内容が情報源となってイメージが作られるようになる。それが人間にどのような影響を及ぼすのかは計り知れません。だからアートはいかにその「言語」から離れるかということが重要になるのです。コンピュータの情報でない情報のあり方をアートは人々に伝えられるか、身体を介したコミュニケーションを画廊で担保し続けられるかが今後の大きな課題です。
─ 画廊で仕事をしたいと考えている人に、どのようなアドバイスをしますか?
とにかく沢山見ること。人類が古代より作ってきたあらゆるものを見て、先人たちがどういう思いで創作してきたかを書物から学ぶこと、この二つに限ります。画廊は作品を作りません。喋るのが仕事です。重要なのは、選択した作家のおもしろさやその作家に惹かれた理由などをお客様にわかりやすく説明することです。これは美術館にある説明書きとは異なります。おもしろく話すという訓練には時間がかかるので、接客して販売できるところまでいくのに最低10年は要します。

私が私らしい展覧会を考えられるようになったのはここ10年です。それはようやく「自分は何なのか」が理解できるようになったからでしょう。展覧会というのはアーティストと画廊の共催なので、お互いのコミュニケーションの中で各々が自分を自覚することが重要。それができるといい展覧会になるのです。
─ ムサビの学生さんへのメッセージをお願いします。
人生において選択は一つです。つまり、ものごとを選ぶとき沢山の選択肢があるように思えるけれども、選択するのは一個しかない。そしてそれは白紙状態の中から選ぶのではなく、その前のことが必ず関わっている。その選択が次の選択へと繋がり、最終的に全部が必然になる。選択は一つなのだから、そんなに心配することはないのです。
また、これまでを振り返ると自分で選ばなかったことも沢山ありました。若いうちはあまり頑なに人生の選択を考えないで、人から勧められたことをやってみてもいいでしょう。全てが役に立つので。政治家秘書として雑務をこなしたり、画廊の下っ端としての下積みなど、みなが敬遠するような仕事にもいろいろな知恵が含まれていて、役立つ学びがたくさんあるものです。

編集後記:
画廊がアートを売るにはアーティストに関する知識だけでなく、それを取り巻く社会環境への理解、さらには顧客との円滑な人間関係づくりも欠かせないとは、政治家に求められるオールマイティな素養と類似している。これまで多くの美術館の展覧会に行きアート体験を重ねてきたつもりだったが、ギャラリーにはほとんど足を運んでこなかった。これからは勇気を出して(?)画廊に足を踏み入れ、ギャラリストから学んでみようかなと思った。
取材:大橋デイビッドソン邦子(05通デコミ/グラフィックデザイナー)
ライタープロフィール
名古屋出身。グラフィックデザイナー/ライター。2006年に武蔵美通信コミュニケーショデザインコースを卒業後、渡米し、2008年よりスミソニアン自然歴史博物館でグラフィックデザインを手がける。2015年より東京在住。現在は日本の伝統工芸の存続を支援するNPO、JapanCraft21のデザインを担当している。
撮影:いしかわ みちこ(10院デ写)